田舎の土地をつっきって、一本だけまっすぐ西に向かって延びる道。1年に2度夕日が道に沿って降り注ぐ。
特に秋の晴れた夕暮れには、夕日の中をまっすぐ歩いてゆくと、「西の街」にたどりつくと言い伝えられている。
なるほど、滅多にその道を歩く人はない。地図を見れば、川を隔てた隣村に続くことはすぐにわかる。それでも、未だに、この道は西の街に続いているのだ。
ちょっとした事情から、ぼくは、秋の晴れた夕暮れ、夕日の中を歩いた。わりと距離があって、村を分ける橋にたどりついたとき、あたりは暗くなっていて、そして、橋の向こうにある家並みは、どことなく、見慣れた隣村とは違っているように見えた。
ぼくは、こうして、「西の街」に迷い込んだ。
境界の橋を渡り終える時分には、あたりはすっかり暗くなっていた。
橋のたもとは、緩やかな下り坂になっていて、下りきったところに、やはり真っ黒なテントがある。
――夜を売ります――
崩れそうな看板にはそう書かれていて、中にはひとりの男がいた。
「夜――ですか?」
「そうじゃ。夜じゃよ」
「どうやって、そんなもの?」
「あんたの、昼の時間と引き替えに同じだけの夜の時間をあげよう」
男は静かに話します。
どうじゃ。あんた、朝が来なければいいと思ったことはないか。いや、隠さなくてもいい。だれしも思うことじゃ。
朝が来て、昼間になればあれやこれやを考えねばならぬ。考えたくないと言っても無駄なことじゃ。
だからな、あんたの、じゃまな昼間の時間を夜と取り替えるのじゃよ。
「でも……」
「なにかな?」
「ぼくの昼間の時間をもらって、あなたはどうするんですか?」
「さてな……。この世には――いや、本当はこの世ではないのかもな――昼間の時間が欲しくて欲しくてたまらないと言う御仁もいてな」
「ふぅん」
「いかがかな? もっと夜が欲しくないかな。昼間の時間が短くなれば、考えねばならぬこともずいぶんと少なくなるのじゃがな」
「ズルは良くないわ」
「……いまいましい。なにもズルをしようとしてるわけじゃない。お客が夜を買う気になったら、あんたのうちに案内するさ」
「そう……じゃ、先に連れていってもいいでしょ」
「それはじゃな……」
「買う気になったらどうせ案内するんだし、買う気がないならあなたに用はないわ」
ぼくは突然訪れた女に子に引っ張られて、M教授と話すことになった。
「そうですか。娘が失礼をしました」
「いいえ。失礼なんてとんでもない」
「そうよ。昼買いに捕まりそうになってたのを、連れてきてあげただけじゃない」
「昼買い?」
「そう。あいつは、『夜を売ります』なんて大層に看板を出しているけど、その実あんたの『昼間の時間』が欲しいだけなの」
「騒々しくして、さぞ驚かれたでしょう。いつもこんな調子でしてな」
「悪かったわね、騒々しくて」
「実はですね、一度でも自分の昼間の時間を売り渡してしまうと、もう取り返すことが出来ないわけですな。それで、夜を買う気になった人には、その点について説明することにしたわけです」
「したわけです……って、よく承知しましたね」
「させたの。こう見えてもすごいんだから」
「いいえ、ちょっと脅しをかけただけですよ。集めた昼間を売り渡せなくなるようにね」
「でも……だったら、脅かすだけじゃなくて、本当に昼間を売ることが出来なくしたらいいのに」
「そうよね」
「ただ――どうしても、夜が必要な人も、そして、昼間が必要な人もいるわけですよ」
教授は、ぼくを見て、夜を買う(教授の娘――Lの言い方では、昼間を明け渡す)つもりはないと思ったらしく、早々に話を引き上げてしまった。
ただ、ぼくが、「東の街」から来たばかりで、行くところがないと、Lが話すと、そのまま滞在することを許してくれた。
謝辞:本章を「まぼろしの湖」のアイディアを提供して下さった、K先生に捧げます。
L(M教授の娘)が案内してくれた湖は、ちょうど高台の上から見おろせる場所にある。そんなに大きなものではない。岸辺には、疎らに人影も見える。
「おりてみましょう」
「うん……」
ぼくは、Lの後に続く。彼女は、少しばかりいたずらっぽい笑顔を見せる。少しばかり草のはえた斜面を下って、ちょっとした広場に出ると、むこうに湖が見える。
「行きましょうか」
「……うん」
しばらくは何事もない。ところがそのまま歩いているうちにおかしな事に気付く。いつまで経っても湖にはたどり着けない。歩いているのと同じ速さで、湖は遠ざかってしまう。
それだけでなくて、Lの姿がかんすだように見えたかと思うと、消えてしまった。
思わず立ち止まると、ほんの目の前に彼女の姿が現れて、ぼくは、あっけに取られてしまう。
「驚いた?」
「うん……」
「この街の名物よ、『まぼろしの湖』ってね」
「まぼろしの湖?」
「どんなにがんばっても、湖にたどり着けないおかしな場所」
「すぐそこに見えるのに……」
「だから、みんなそこそこの場所で湖を眺めるの」
「……そうだ、高台から見えたじゃない」
「そうね」
「歩いている様子を高台から見たらどう見えるの? 湖が逃げるわけ?」
「うん。あなた、素養は抜群に良いわ」
「え?」
「ううん、こっちのこと。高台から見ても湖は逃げたりしない。歩いている方が止まってしまうの」
「止まる?」
「うん。止まってしまったように見えるの。じっとして、少しも動かない」
「変だね」
「変でしょう」
「もっと変な奴がいてね」
「変な奴?」
「そう。こんなおかしな湖で、ある程度湖に近づくと時間が止まってしまう。みんなそう思っているわ。だのにね、時間はゆっくりになるだけで、決して止まったりしないって言い張ってね、ぶっ倒れるまで歩いた奴がいるの」
「で、どうだったの?」
「その間に何秒だかは進んだって」
「そう」
「でも、誰も信じなかった」
「だって、確かめてみたら?」
「信じてもないのに、ぶっ倒れるまで歩く奴がいると思う?」
「だけど……」
「馬鹿よ」
「そうでもないと思うけど……」
「いいや、大馬鹿」
「そんなに嫌い」
「うん? 誰が嫌いって言った?」
「え?」
「そんなことを言ってましたか」
「ええ。でも、誰のことを言ってたんでしょう」
「わたしのことですよ、それは」
「余計なこと言わなくていいの!」
そう言い残して、Lは部屋を出ていった。
「でも……」
「何でしょう?」
「あの、先生は、物理の先生ですよね」
「そういうことになってるようですね」
「じゃ……その、変じゃないですか? そこにあるのに絶対にたどり着けない湖だ
なんて」
「変ですよね」
「そう……なんだか、物理の先生がそんなおかしなものに関わりあうのって、変じゃないですか?」
「物事は、考えたとおりにではなくて、そこにあるようにあるものですよ」
「…………」
「いくら考えが及ばなくても、実際にあるものは信じましょう」
「でも……」
「それでも、確かめるときに居眠りでもしてたかも知れないから、誰かが、他の方法でも、確かめてくれたら、なおいいんですけどね」
話はそこで途切れ、ぼくは、また一晩やっかいになることにした。
翌日、ぼくはLの案内で「言葉の森」に向かった。
「本当はね、ただ単に『森』って言うの。『言葉の森』って、私の命名」
「変わった名前だね」
「そうね。でも、しばらく黙っていればわかるわ」
「森が話しかけてくるとでも?」
「そうね……違うけど、そんなに外れじゃないわ」
ぼくは、そしてLもそのままおし黙っていた。
しばらくすると、突然、拍子木のような音が響く。
「だめ。驚いちゃ」
ちょっと驚いて、身体を堅くしたぼくに、Lが言う。
「静かにしていましょう」
森の中で、会話が始まるのには、また少しかかった。
拍子木が響く。草がさわめく。ほんの少し、水が流れを変える。
ふと、予感がしたかと思うと、風が通り過ぎる。枝が揺れて、水滴が落ちる。
「いかが?」
Lはささやくように言った。
「言葉の森……って?」
ぼくも、小声で答える。
「いろんな言葉があるわ。それを思い出すことができる」
「言葉って?」
「そう。誰も信じてはくれないけどね。森が話すんじゃなくて、森の中は、言葉に満ちている」
「静かな……」
「言葉ってのは、差分だわ」
「差分?」
「あ……そうね。あなたと私がお話をするのなら、あなたと私の違いを言葉にしなくちゃね」
「…………」
「わかる?」
「なんとなくね」
「そう。あなたと私の違う分だけたくさんの言葉が要りようになる。同じなら、ほんの少しの言葉で事足りるわ。ここには嵐は来ない。森の中の言葉は静かだわ」
Lは、そのまま黙りこくってしまった。やがて、考え事をして眠くなったからと眠り始める。
Lの寝顔を、木漏れ日が通り過ぎる。彼女は微笑んだのかもしれない。風が通り過ぎ、下草がささめく。
言葉は差分なんだ――Lは言った。
微かな微笑みをたたえるLの言葉を、ぼくは聞こうとしたけれど、なんだか、わかったような、わからないような、不思議な気分だった。
その夜。ぼくはまた、M教授の家でやっかいになった。その夜は、Lが居間からぼくを追い出しにかかったので、ぼくは、早めに床についた。
「見込みはあるわよ」
「失礼な言い方をするものじゃない」
「ごめん。そうよね。……でも、森の中の言葉を、彼は感じてくれたと思う」
「それは、『まぼろしの湖』での出来事を聞いただけでわかる」
「そうでしょ」
「ああ」
眠い。ぼくは眠ってしまったようだ。
翌朝、夜明け前にぼくは、Lにたたき起こされた。
なんだか、ずいぶん急ぐ様子で、ぼくを街外れの橋のたもとに連れてゆく。夜売りがいまいましそうに睨んでいる。
「急がせてごめんなさい。時間がないの」
「時間が……ない?」
「そう。あなた、今なら帰れるわ」
「帰るって?」
「あなたの街に」
「ぼくの街?」
「あなたが居るべき場所」
Lの話は、ぼくが知っている話と同じだった。朝焼けの光の中をたどって、この橋を越えると、そこにはいつもと違う街がある。この街の人は、そこを「東の街」と呼ぶ。もちろん、ぼくが住んでいた街のことだ。
「だめだよ。ぼくがこっちに来たのは、3日も前じゃないか。もう、太陽の位置は変わっている。橋に沿って日は差したりしない」
「ううん。3日前だから間に合うのよ。あなたの言うとおり、今朝の太陽は斜めに差す。でも、今日までなら、朝焼けに沿って歩くことが出来る。簡単な事よ。今日はまだ、朝焼けに合わせて斜めに橋をつっきる事が出来る」
「…………」
「だから、明日になれば、朝焼けの光は橋をはみ出してしまうの」
「……帰らないって言ったら?」
「帰って」
「この街が気に入ったんだけどな」
「でも、ここはあなたの住むところじゃない。あなたはあなたの街で、あなたの昼間を暮らさなきゃ」
「どうしても?」
「どうしても」
今なら父の気持ちが、少しはわかるような気がする。
この街の、まっとうな人たちは湖を無視したわ。いつまで経ってもたどり着けない湖なんてあるはずがない。父が、時計を片手に倒れるまで歩いて、高台からどう見えるのかを私が記録しても、誰も湖のことを信じなかった。ううん。誰もが知っているのに、信じていないふりを続けるだけだった。
それから、父は、私に手伝いをさせてくれなかったわ。「気の違った似非科学者」の仲間になんかしたくなかったのでしょうね、私を。
「でも、君の父さんが、おかしいなんて風には見えないけどな」
「ありがとう。私もそう思う。そして、あなたはそう言ってくれると思っていた」
私は、「言葉の森」をみんなに紹介した。光・風・音・微かな動き全部が森の中の会話なんだってね。もちろんだれも信じてくれなかった。うそ。無視したの。だれも違うって言ってはくれなかったわ。
で、父もやっと認めてくれてね、私が「気の違った科学者の娘」にふさわしいと。
「君達の方が普通なんだと思うけど……」
「だから、私はあなたに一緒にいて欲しいの、本当は」
「だったら、話は早い……」
「でもだめ。今ならわかる。私はあなたを、『気の違った科学者』の仲間にしておくだけの勇気なんて無い」
「勇気だなんて、変だよ」
「いいから」
Lは、そこまで言うと、ぼくを強引に押し込んだ。Lの言うことがわからなかった。ぼくはこの街が気に入った。彼女もぼくのことを気に入ってくれたらしい。だったら、ぼくは帰る必要なんか無い。なんで、彼女は強引にぼくを帰えそうとするんだ。
彼女の言うことが、どうしてもわからなかった。
「大丈夫。あなたはもともと向こうの人だもの。簡単に帰れるわ」
Lは、最後にそう叫ぶと、ぼくを橋の向こう側に突き放した。ぼくが正気を取り戻したとき、あたりには見慣れた景色が広がっていた。
目の前の橋にはLの姿はなかった。あわてて、引き替えしたけれど、ぼくは2度と「西の街」を見ることはなかった。