「良くないな」
声がかかる。ピットに少しばかり沈んだ雰囲気が漂う。
おれたちは、アマチュアのレースチーム。オートバイのレース。チームと言ってもバイクに乗るレーサーのおれと、メカニック――バイクの調整だとか整備だとかの担当――の信次と二人だけのチーム。
今年はやっと予選を通過したというのに、おれのタイムが伸び悩み、というか、はっきり言って遅くなったりして、信次ともども気をもんでいるわけだ。
「まあ、わからないでもないがな」
おれにしても、タイムが伸びない理由はわかっている。
ちょっと前に、骨髄移植推進財団とかいう仰々しい名前のところから、「三次検査のお知らせ」なるものがとどいた。なんかの間違いじゃなかろうかとか、そもそもこれはなんだろうかとか、しばらく悩んだあとで、おれはかなり前に「ドナー登録」なんぞをしていたことを思い出した。
なんでも、「骨髄バンク」とかいうのがあって、そこに登録してくれという話を、その昔聞いた。で、受付の女の子がかわいかったもので、ちょっとしたひやかしで、ドナー登録などしてしまったのだった。登録はちょっと血を取られるだけですぐに終わった。
で、「三次検査」なんていう話になるってことは、要するに相手――おれの骨髄だかなんだをやる相手が見つかったってことらしい。
話の具合ではおれが骨髄液を提供しなければ、なんでも相手の命にかかわるらしい。おれとしても、自分のせいでむざむざ誰かを死なせてしまったなんてことになったら寝覚めが悪いから、まあ、提供はすることになるだろうな。
そんなわけで、バイクでコースを走っていても、どうも、スピードが出せない。コーナーの手前では早々とブレーキをかけてしまう。ここで、おれが怪我でもしたら、誰だか知らないが他人の命にかかわるのかと思うと、やっぱり思い切れない。それで、冒頭のごとく「良くないな」ということになるわけだ。
もうひとつ大変だったのが母親の説得。
背骨を取られるだの、こっちの命にかかわるだの、何をどう勘違いしたのか大騒ぎをしてくれた。実は、おれも冷やかしでドナー登録をやったくらいだから詳しいことは知らなくて、母親に説明するのに、あわててしまいこんであったパンフレットの類をひっくり返すことになったわけだが。
で、ほんの二三日入院するだけのことだとか、やっと説明して、事情がわかったらわかったで、母親は喜んだ。ほとんど、「感涙にむせぶ」という風情だったりする。
なんでも、迷惑をかけてばかりのどら息子が、初めて人様のお役に立ててこれ以上のしあわせはない――ということらしい。
記録は伸びず、母親は大騒ぎをする。おれは、そんな中で暮らしていた。
そうこうするうち、おれの中では、不思議なことにだんだん「そいつ」のイメージが固まってきた。
おれはといえば、情けないことに、コースではおろか階段の昇り降りにも妙に気を使ってしまう。ちょっとでもつまずきそうになる度に、おれは、おれの骨髄液を受け取ってくるはずの、「そいつ」に声をかけた。「大丈夫。転んだりしないって」
そうして、自分の中で何度も声をかけているうち、なんだかおれの中で「そいつ」はだんだんはっきりした形を取り始めた。
そいつ――おれが、骨髄液を提供する相手は、そう、小学生くらいの女の子のように思えた。本当は、実際の患者のことなんか何も知らないのに。そう、年齢も、それどころか、男か女かも知らないのに。
そんなある日、おれは「ムーン」と出会った。
いつも通りのぱっとしない記録をぶらさげて、ピットに入る。そこに「ムーン」はいた。
おれが感じていた、おれの骨髄液を受け取ってくれるはずの女の子が、ピットを歩いている。そりゃ、単なる偶然だろう。おれだって、そんなことはわかっている。なにより、そんな病人がこんな所をうろついているはずはない。
「こんにちは」
「こんにちは……って、ああ」
おれは、あわてて信次を探した。
「誰だ?」
「知らん」
「知らない?」
「ああ、知らん。ピットをぶらついているだけの奴のことをいちいち知るか」
「それもそうだ」
「そもそも、なんだってあんな子供のことを聞いたりする? 小学生が趣味だとは思わなかったが」
「そんなのじゃない」
「じゃ、なんだ」
説明するのもめんどうで、おれは話を切り上げた。「小学生が趣味」と思われるのもしゃくにさわるが、ちょっとつまずく度に、「心の中」の女の子に声をかけていたなんて、それ以上に気恥ずかしい気がする。
「いい? ここ?」
「あ、ああ、いいよ別に」
「良かったな彼女ができて」
「ばかか、こんな子供相手に」
それを聞いて、そいつは口を尖らせていた。
「おまえ、名前はなんていうんだ?」
「ムーン」
「ムーン?」
「うん」
「ハーフか?」
「違うわよ」
「あだ名か?」
「そんなところ」
その日から、ムーンは、おれたちのピットに来るようになった。
「このごろタイムが悪いじゃない?」
「うるさいな」
ピットをうろついているといっても、まさかこんな子どもに、「タイムが」なんて言われるとは思わなかった。なんでも、近くに住んでいて、このコースにはよく来ているらしい。時々はこうして、適当に相手を探して話し込んで行くんだそうだ。なるほど、レースのことに妙に詳しいわけだ。。
「だって、予選の時は、『チーム・アスカ』って、二分切ってたじゃない」
「おまえ、タイムまで計ってたのか?」
「うん。あたしね、そりゃ、バイクに乗っている人を見て上手か下手かなんてわかんないわよ。でもね、走り方がきれいかどうかはね、なんとなくわかるの」
「走り方がきれいだって?」
「そう。予選の時のきれいな走り方を見て、ちょっと興味があったの。でも、この頃はちょっとぎくしゃくしちゃってるよね」
「うるさいな、おまえは」
おれは適当に話をきりあげた。なんてことだ。子どものくせに、見るところは見てるじゃないか。
そうこうしているうちに、信次が「もう遅いから」とかなんとか言って、追い返しているのがわかった。
「ときに……」
「なんだ?」
「走るのか、おまえ?」
「ああ、当然だ」
行き付けの喫茶店で信次が尋ねる。別に酒が悪いというわけではないが、やはり本番が近づくと酒絶ちなんぞをしてしまう。
「ドナーだぞ、おまえ」
「それがどうした」
もちろん、信次が言いたいことはわかっている。レースに出ておれが大怪我をするとか、まかり間違って死んでしまうなんてことになったら、人ひとり見殺しだ。おれだってそんなことは、わかっている。でも、それとこれとは別だ。
「やっぱり走るんだな」
「やっと決勝までこぎつけたんだぞ」
「それはわかっているが……」
「おれは……」
「ああ、わかってる」
そうだな。信次にはもう何度も話したことだ。
おれは、人の役に立つつもりなどもうとうない。ああ、骨髄液は提供するさ。わざわざ他人の邪魔までするつもりもないからな。それに、前にも言ったが自分のせいで誰かを死なせてしまうってのも寝覚めが悪いからな。
ただし、それは、自分のことが終わってからだ。
あと数日で決勝。初めの予選通過。それ程裕福じゃないし、腕が良いわけでもないから、決勝に残るまで今までかかった。もちろんのこと、今回を逃したら次のチャンスはいつになるかわかったものじゃない。
だから、まずはレースに出る。それがおれの都合だ。それ以上に、今のところおれの夢だ。その後で骨髄でもなんでも提供してやるよ。
信次はいつも、少しだけ顔をしかめながら聞いてくれた。承服しかねるという、けれど、それもしかたないか……そんな表情で。
信次はよく知っているからな、おれのことを。
今だっておれの母親は、「おまえもやっと人様のお役に立てて、生きてきたかいがあったね」なんてことを平気で言う。
冗談じゃない。「人様のお役」になんて立てなかったら生きていちゃいけないとでも言うのか。
まあいいだろう。誰かの役に立つなら生きていてもいい。そう考えよう。だったら、誰の役に立てばいい? 人助けをしたとして、わざわざ助けたそいつが、結局誰の役にも立たなかったら、おれは、生きていてもいいのかい?
くだらない。誰かの役に立つなんて、おまけに、誰かの役に立つから生きていたかいがあったなんて、結局口実にすぎない。「おれは生きていてもいいかい?」そういって、どこの誰だか知らない奴に、押し付けているだけじゃないか。「あんたの役に立ったのだから、だからおれが生きていてもいいと言ってくれ」と、そう言って。
おれは、こんな母親に育てられた。祖母はそれを見ていた。
祖母は最後に、「人に優しくするのは、一番最後で良いからね」と言って、亡くなった。
だから……。おれは別に誰の役にも立ちたくないなんては言わない。ただ、自分で自分の夢をかなえてからだ。それから、誰かを助けることが出来たら、誰かを助けるだろう。
自分で自分の夢も見られないで、「他の人のため」なんていう口実で、だから自分は生きていても良いんだなんて、おれは認めない。
信次はおれと同じ意見ではないらしい。それはわかっている。それでも、おれのことを良く知っている信次は、「それも仕方がないな」と、そう言ってくれる。
決勝が近い。
「あいかわらず、タイム伸びないわね」
「うるさいな、おまえは」
あいかわらず、ムーンがまとわりつく。
「本当に予選通過したの?」
「おまえな、たいがいにしろよ」
おれがムーンとにらめっこをしている時、耳障りな音が響いた。クラッシュだ。誰かのバイクがぶつかりでもしたらしい。
ムーンは、はっとしたように顔を上げると、急に走り出していった。さすがに、女の子にバイクのクラッシュは刺激が強すぎたかな。そんなことを思いながら、おれは信次を見ていた。信次は、なんだか妙に心配そうな様子をしている。
「大丈夫。ぶつかり方が素直だったから、そんなにひどい怪我じゃなかったわ」
ムーンが帰ってきた。
「大丈夫って、おまえ、なんかしたのか?」
「うん。簡単な応急手当よ」
「応急手当手って、おまえ……」
「ううん。骨折してなかったし、ちょっと包帯巻くだけだったの」
あきれたやつだ。なんでも、ムーンは自称「看護婦のたまご」で、それもあってピットの回りをうろついていたんだそうだ。
事故でもあってそれが手におえるくらいなら、薬をつけたり包帯を巻いたりをしていたらしい。
「おまえな……なんだってそんなめんどうなことを?」
こりゃ、ムーンも「人の役に立てばいい」派かな。
「だって、夢をかなえようとしているのはおじさんばかりじゃないもの」
「は? それに、『おじさん』はないじゃないか」
「だって、おじさんは、おじさんよ」
夢をかなえようとしている人は、あんまりたくさんはいないけど、それでもいろんな所にいるわ――と、ムーンは話してくれた。
レースをしているサーキットのコースなんて、さしずめ、そういうやつらの溜り場なんだそうだ。ま、そうではあるな。
「あたしね、夢をかなえようとがんばっている人を見るのが好き。そしてね、がんばっているのに、夢をかなえるのをあきらめなきゃいけないなんて、嫌いなの。だからね、ううん、あたしにできることってあんまりないけど、出来ることだったら、助けてあげられたらなって、そう思うの」
「それで、このコースで怪我人を探して手当をしているっていうわけか」
「うん。そうよ」
「人の役に立ってそんなにうれしいか?」
「うん。うれしいわ、誰かの役に立つってことはね。でも、それだけじゃない。言ったでしょ。あたしね、夢をかなえようとしている人が好きなの。だったら、夢をかなえることをあきらめて欲しくない。好きな人がひとりでも減ってしまうって、寂しいもの。だから、お手伝いをするの」
「おまえはどうなんだ? おまえはどんな夢をかなえるってんだ?」
「まだ決めてない。ううん、まだ見つけてない。でも、探さなきゃね」
「そう言って、人の面倒ばかり見てるのが忙しくて、夢を探しているひまなどあるものか」
「あら? だって、自分の夢を探し当てるまで、なにもしないでじっとしているなんて、退屈だわ」
「おまえは……」
おれは、言葉に詰まってしまった。
なんで、言い返せない。こんな子どもに。
好きで人の面倒をみている……ってのは、おれには意外だった。
怪我人を探して、手当などしているムーン。でも、ひょっとしてムーンなら「誰かの役に立たなければ生きている意味が無い」なんてことは言わないかもしれない。
「実はな」
「なに?」
「おれはな、ドナーなんだ」
「ドナー?」
「そうだ。骨髄液の提供予定者」
「ああ、骨髄バンクね。登録したの?」
「登録したどころじゃなくてな、提供する相手までしっかり見つかっている」
「ふーん」
「だのに、おれは自分のレースに忙しいと、こういうわけだ」
「ふーん。それでタイム伸びないんだ」
「はあ?」
「おじさんってば、骨髄を提供しなくちゃならないんで、だから、怪我なんかしちゃいけなくて、それで、思い切り走れないのね」
「なにがわかる、おまえに」
「やめたら? 今度のレース」
「やっぱり、そう言うか。残念だったな、おれは絶対にレースをやめたりしないからな」
「だって、やっと予選を通過したからって、それにしがみついて、あげくのはてこわごわ走るなんて失礼だわ」
「失礼?」
「うん。だって……予選を通過して、決勝でベストを尽くすってものでしょ? そりゃ、どんなに一生懸命やったって、失敗したり事故起こしたりってことはあるけど、始めから恐くて思い切り走れないのに、決勝に出るなんて失礼よ」
「そうか。だったら、患者――おれの骨髄液を提供される奴のことなんか忘れて、そう、何も考えずにレースに出ればいいとでも良いのか?」
「そうね、それなら良いわ」
ムーンはそう言うと、黙りこんだ。どのくらい黙っていただろうか。おれも、なんだか話し掛けてはいけないような気がした。
しばらく――きっと、そんなに長くはなかったと思う――押し黙っていたムーンは、静かに話し始めた。
骨髄液の移植ってことは、そのひと、白血病かなにかで、ほっとくと死んじゃうかもしれないってことよね。
それって、夢を見るのがとっても難しいってことだわ。ううん。夢を見るなんておおげさなことじゃないの。これから、冬になったら雪が見られるだとか、そして、その先に春があるだとか、そういったあたりまえのことが、全然あたりまえじゃないってことよね。
おじさん? もう、冬が来ることなんてないんじゃないか……って、そう思ったことある?
だから、おじさんがね、骨髄液を移植してあげて、その人が助かって。そして、また冬が来て春が来て……そういうことがあたりまえなんだって思えるようになるとしたらすばらしいことだわ。
そしたら、その人は気付くの、始めは、季節はこれからも、ちゃんとめぐるんだってこと。そして、今度は夢を見ることができるんだってね。小さいけど、本当の奇跡よ。
「だから、レースになんか出ずにそいつに骨髄をやることだけを考えればいいとでもいうのか?」
そうは思わない。
もしも、本当に、もしもの話よ。あたしがその患者さんだったとして、骨髄を移植してもらって助かったとするわ。
そうして、いつか夢を見ることを覚えるの。「将来」だなんていう自分には関係のなかったものが、今度は自分にもあるんだって、気付くの。
その時にね、骨髄液をくれた人が、そのために自分の夢をあきらめていたんだって知ったら、きっと、あたし、残念だなって思うに決まっている。
夢を見るって、それだけで小さな奇跡だって気付いちゃったら、夢の大きさに気付いてしまったら、他の誰かが夢をあきらめたなんて、きっと残念に思うわ。
「そうか。意見が一致したってわけだな」
おれは信次に声をかけた。ムーンもおれと同じ意見なんだそうだ――と、それだけ言って、コースに出た。
おれは、とりあえず、おれの夢だけを追いかける。もう、余計なことは考えない。
軽く深呼吸。大丈夫、今度はいいタイムを出せるだろう。
「ちょっとくらいの怪我ならあたしがついてるからね」
ムーンの声が響いた。
決勝を二日後にひかえて、タイムは今ひとつだ。とりあえず、ムーンと意見が一致したのは心強い。もっとも、ムーンはまだ子どもなわけで、ほんの子どもと意見が一致したから心強いってのもおかしな気はするがな。
ムーンとは意見が一致した。確かに、おれもムーンも、「まず最初に、ちゃんとおれ自身の夢をかなえよう。今はおれの夢だけをおいかけよう」とそう言った。だから、意見は一致したのだろう。
本当だろうか?
おれは、妙な違和感に悩まされていた。ムーンはおれと違ったことを言ったんじゃないか。そして、おれはなにか大切なことを忘れているんじゃないだろうか。
信次はいつもより念入りにバイクの整備をしていてくれる。ムーンも毎日顔を見せる。タイムは速くなったが、まだ走り方がきれいじゃないなんて、わかったようなことを言う。
そして、おれは走ること以外には何も考えないようにしてコースを走る。そう、レースに出るからといって、怪我をすると決まったわけでもない。そんなことを気にするくらいなら、道を歩いていて車にはねられないように注意した方がまだましというものだ。
そうこうするうちに、決勝の前夜になった。おれたちはいつもの喫茶店で話している。今夜はムーンも一緒だ。
「どうだ、おれの走りは」
「タイムは回復してきた。決勝までもう少し時間があったにこしたことはないが、今のままでも、かなり良いところに食い込めるかもな」
「でも、あたし、嫌い。いまのおじさんの走り方」
「嫌いだと?」
「だって、無理して走ってるんだもの」
「そりゃ、無理もするさ。決勝は近い。なにか? そんなに無理して怪我でもしたら大変……とでも言いたいのか?」
「ううん。走りたくて走ってるんじゃなくて、なんだか、走らないといけないから走ってるみたいなんだもの」
「なにがわかる、バイクに乗ったこともないのに」
「見たことはあるもん」
なんだか、すぐむきになってしまう。本当はおれにもわかっている。ムーンが言った、「走らないといけないから走ってる」ってのが。いや、わかっているわけではないか。なんだかわからないけど、図星をさされたような気がする。
やっぱり、「患者」のことが気になってしかたないか。ま、それもだらしないといえばだらしない。そういうものだといえば、そういうものかもしれない。良くわからないな。
「ムーン、おまえだったら走るか?」
「え?」
「おまえだったら走るかって聞いてるの」
「わからない」
「わからない?」
「うん」
「だっておまえ、患者のことなんか気にせずに走るなら、それもまた良いって言っただろう」
「うん。それもまた良い。せっかく夢を見ているのに、あきらめるはもったいないもの。でも、えっと、患者さんのことが気になってしかたなくて、それで、ちゃんと夢を見られないなら、そう、そもそも、ちゃんと夢を見ることができないなら、『自分の夢』のせいにしちゃいけないの。」
「おまえ、本当に小学生か?」
「知らない……」
夢を見られるってことは、素晴らしいことで、おまけに、ちょっとした奇跡なんだとムーンは言った。確かに、明日はどうしようだとか、来年はどうしようだとか、そんなことを考えることができるというだけで、小さな奇跡なのかもしれない。
明日は今日と同じ――いや、今日よりも少しだけ夢に近づいた日。そう考えることが出来るというだけでも、奇跡なのかもしれない。
そうだな。おれは夢を見ることもできない人間でいたくなかった。それは、明日は今日と全然変わらない日で、だから今日と同じことをしていればいい――そんなやつらが、嫌だったのに違いない。
けれど、実のところは、明日という日が同じようにあるんだというのが、それがそもそもは、奇跡なのかもしれない。夢を見るというのは、夢を見ることができるというのは、明日が、必ず来る明日で、しかももっと別の明日だなんて信じられることだ。それは、もっとすばらしいことなんだ。
ムーンとおれの意見が一致したのは、レースに出るということじゃないのかもしれない。ムーンは、ひょっとしたら、もっと小さな頃、病院にいたんじゃないんだろうか。だから、ムーンは夢を見ることが、小さな奇跡だと知っていた。
おれだって、夢を見ることが、おれがおれであることだと思っていた。だったら、おれも、誰かが夢を見られるようになって欲しいと思ったんだ。。
「辞めたぞ」
「なんだって?」
「おれはね、辞めたの、明日のレース」
「どうした、突然」
「そうよ、だれかのために夢をあきらめるなんて、だめ」
「ああ、あきらめたんじゃない、気付いたんだ」
強がりはやめよう。
おれのために誰かが死んじまったら、寝覚めが悪い。レースは言うほど危なくはないが、無理に危ない目にあうことはないか。
いや、それだけじゃない。おれの夢――たとえば、レースに出て優勝するのはきっと素晴らしい。でも、おれは、夢を見て、ひとつずつ夢に近づくということが、もっと素敵なことなのだと思う。なら、いいじゃないか。おれは誰かが夢を見られるように、精一杯の協力をしてやろうじゃないか。
だから、おれは明日のレースを辞める。
あと一週間。
おれも病院行きだ。二日もすればやることは終わって、そのあと一週間で社会復帰。
おれが帰ってくる頃、このレースは跡形もなく終わっている。
いつか、そう、今度おれがレースに出られるようになった時、ムーンはやっぱり、ここにいるんだろうか。
FIN.