―― 真夜中の、水べりに、ただひとり、たたずんで、
風の音、子守歌、雲はなし、星月夜 ――
「南の国の蝶」のセクションに歌声が流れていた。
すみきった、本当に何一つ濁りのない声。そうめったに聞けるものじゃない。おれは――不覚にも――しばらく聞きほれていた。
午後十時。うっそうとしたしげみの中を、夜行性なのか――あるいは、寝ぼけたのか、蝶がちらほらと飛び交う。歌声は、しげみの向こうから聞こえている。
おれは、ここ「世界大昆虫園」で夜警なんぞをしている。交易の中継点として栄えるこのオアシスの一部を割いて作り上げられた熱帯の森。もちろん、熱帯の森だけではなく他の地方の林も、あるいは、北の国の針葉樹林――もっとも、針葉樹林は「冷室」入りのおもちゃではあるが――さえここにはある。虫たちが木々の、あるいは草のまわりを飛び交う。
夜になれば森は虫だけになる。昼間は賑わう森の、静まり返った夜の光景が、おれはわりと好きだ。もっとも、「歌声」はさすがに初めてだ。
歌声の主は女の子だ。いや、子どもじゃない。まあ、子どもでもあるが……二十歳越してないことは、賭けてもいいだろう。
おれに気がつくと、そいつは、おれと対峙しやがった。正直言って、おれの方が、ちょっとあせったくらいだ。何秒か――あるいは、何分かにらみ合いが続いて、ふいに、やつの表情がゆるんだ。
「あら、何かご用? こんな時間に」
こっちの台詞だ、それは。なさけないことだが、おれは、その声を聞いてやっとしゃべることができた……それも、よそ行きの声でだ。
「こまりますね、お客さん。もう夜中ですよ、すぐに出ていっていただきましょうか」
「そうもいかないのよ。出ていっても、行くところがないの」
「そう言われましても、もう、閉館ですから、出ていってもらわないと困りますね」
「おねがい、おじさん、何もしないから一晩だけ、いさせて。あ、私、キラって言うのよろしくね。一応、占いやってるんだけど、昨日までいた街から出てきたところで、次の街に行こうと思うんだけど、泊まるところなくて。今夜何かあるの?
宿、あぶれちゃったの。でね、ここって野宿するのにとってもいい雰囲気だと思うでしょ。で、良くないとは思ったんだけど、一晩泊めてもらおうと思って……」
本当の所、おれは、ちょっと迷っていた。一晩の間に3度の見回りをすると、夜警とはいってもやることがない。それでいて、「寝るな」ときたもんだ。ま、実際は眠っていることもよくあるが、ゆっくりするというわけにはいかない。
「じゃあな、一晩話相手になってくれるんなら、警備室においてやろう」
「ありがと。でも、警備室よりは、ここの方がいいわ」
「こわがらなくてもいいよ、あんたをどうかしようなんて考えてないから。夜警なんてのは、結構退屈なものでな、ちょうど話相手が欲しかったところだ。他には誰もいないし、気を使うこともない」
「そうじゃないの、私、ここの方が好きなの。警備室に夜の風は吹かないだろうし、星だってこんなにはっきりは見えないでしょう?」
「まあ、それはそうだな……好きにしろ。そういえば、おれはまだ、十時の見回りの途中だ、あんたのおかげでな。外を歩くのならいいんだろう、ついてこいよ」
「うん、いいわ」
おれはキラを連れて見回りに出た。昆虫園を一周するだけの仕事だが、結構な時間がかかる。正直言って、キラが一緒だというのはありがたい。
「占いやってるって言ったな。当たるのか?」
「もちろんよ。失礼ね」
「まいったな。じゃ、何か見てくれないか」
「あら、見るのはいいけど、見料はいただくわよ」
「しっかりしてるな」
「私、こう見えても、プロだもの」
「わかった、じゃ占いはやめだ。そのかわり、あんたのこと聞かせてくれるんだろう? その前に、名前くらい言っておくか、おれは、ナギって言うんだ、よろしくな」
「ナギ? 良い名前ね。よろしく。で、何から話したらいい?」
「なんだか、尋問してるみたいだな。まあ、いいか。あんた、さっき、歌ってただろう? 歌もやるのか?」
「訪ねていった街に酒場があって、集まってくる人が気に入ったら、そこで雇われて歌うこともあるわよ。そうそう、ずるいわ、内緒で聞くなんて、私の歌。本当ならお金もらうところよ」
「なんだ、そっちの方もプロだってか。見上げた根性だな」
「あら、そう思うでしょう?」
おれは、「そう思うよ」と返事をして、だけど、今夜は、おれは歌えなんてひとことも言わなかったぞ、と付け加えると、改めてキラの様子を見た。
十六・七か。十五ということはなかろう。
「いい声だな。あんなに澄んだ声は初めてだ」
「おだてても、もう歌わないわよ」
「ばか、素直に喜べ」
「うん。ありがと。でも、ハルカ――歌の先生なんだけど――が、変なこと言ってたの。その澄んだ声もじきに聞かれなくなってしまうんだろうねって」
「会ってないのか?」
「ううん、ハルカも同じように旅をしているから、それでも、年に一度くらいは会うわよ。その時にはちゃんと私の歌を聴いてくれるし。さすがに、ハルカからはお金はとらないけどね」
「あたりまえだ。それにしても、どういう意味かな? おれにもわからないな」
「うん、そうよね。いいわ、きっといつかわかるでしょう」
キラは、(たぶん)生来の明るさで話を打ち切った。
おれたちのまわりを、とんぼが飛びかっている。こいつらは夜行性か。それとも、おれたちがたたき起こしてしまったかな。こんなに派手にとりかこまれたのは初めてだ。
おれは立ち止まると、もう一度キラの方を見た。キラは、不思議そうな顔をして、それでも、正面からおれを見ていた。
不思議な気がした。話しかけるのがもどかしくて、しばらく、おれはそうしていた。
「ナギ、プロの占い師を甘く見ない方がいいわよ」
沈黙を破ったのは、キラの方だ。
「なんだって?」
「それで、わたしが、誰に似てるって?」
「なんだって、おい、おれは、別に似てるなんて……」
「似てるとまでは思わなかったけど、誰か、女の人のことを考えてたって訳?」
「なんで、それを、あんた……」
「ほら、だから、甘く見ちゃいけないって言ったのよ。ふふ、鎌かけただけ」
「何?」
「男の人が、女の子を見つめてぼうっとしてたら、誰か他の女の人のことを考えているか、それとも、私自身を――キラそのものを見つめていたかどっちかだって、わかりそうなものでしょ。わたし、それほど自惚れるつもりはない」
たいしたやつだ……おれは思ったけど、キラは、自分自身のことがまるでわかっちゃない。おれにだってわからない。キラに不意打ちを食らったから、「あいつ」のことを考えていたような気がしたけど、本当は、キラのことが気になっていたのかも知れない。
そこまで考えたときに、おれは、不意に気づいた。改めて思った。こいつは、本当に、たいしたやつだ。
「おい、あんた。鎌かけたなんて、わざとそこまで種明かししてみせたんだろう?」
「え、どういうこと?」
今度はキラがあたふたする番だ。
「断言しても良い、あんたみたいな女の子なら、あんたに一目惚れするやつの一人や二人いただろう。おれだってそうかも知れない。あんた、そのたびに、『鎌かけた』だのなんだの言って、そいつらの気持ちをはぐらかしてきたんだな? 違うか?」
キラはしばらくの間、恨めしそうにおれを見ていた。
「あら、一人や二人だなんてばかにしてるわ。もっといたわよ」
−− 酒場の女にゃ指輪を贈り、花売り娘の花買い占めて、
いくらも機嫌をとってはみるが
まるで子どものあいつに惚れて、さしものおれも打つ手なし −−
「なんだそりゃ?」
「あら、ナギの心境を歌ってあげたんじゃない。大サービスよ」
「どこで覚えて来るんだ、そんな歌」
「港町の酒場で歌っていたときに、詩を書いているっていうおじいさんにもらったの。曲は私がつけたのよ」
「そういう『もらい物』ばかりなのか、あんたの歌は?」
「それは失礼ってものじゃない? ほかには、古典もあるけど、あとはだいたい自分で作るに決まってるでしょ」
「古典?」
「あ、普通の人は知らないよね。私これでも、――ハルカのこと話したと思うけど、ちゃんと、歌の――古風にいえば吟遊詩人の勉強もしてるんですからね。そういうのがあるの。『サラ・ランテ』とか……聞いたことない?」
「それは、聞いたことはあるな。でも、百年以上も前の歌かなんかじゃないか?」
「だから古典なの……本当は、私は苦手で歌わないけど。とにかくね、自分の持ち歌くらい自分で作るわよ」
「そうか、そりゃ、悪いことを言った。でも、何か? おれでも『詩』なんてものを作ることができたら、もらってくれるのかい?」
「気に入ったらね」
そうは言ったものの、「詩」なんてものには、縁がない。「さしものおれも打つ手なし」か。その「じいさん」ってのは、なにが、「打つ手なし」だ。ちゃっかり「詩」なんぞ贈って機嫌をとっているじゃないか。
話しているうちに、おれたちは、昆虫園を一回りしてきた。キラが外にいたがったので、おれは、「警備室」に帰るのをあきらめた――嘘だ。おれだって、キラと話すのなら外の方が気が利いていると思い始めた。
見回りが終わって、おれたちはキラのテント――といっても、大きめの布袋を張っただけの簡単なもの――にいた。疲れていたのだろう。キラは横になったとたんに眠り始めた。相変わらず、蝶がちらほらと飛び交う。おれは、もともと夜通しのつもりだ。
ちょっと拍子抜け。こいつは、子どもだと言っても二十歳前だろう。おれと会ったばかりだというのに、何を気持ちよさそうに眠っているんだ。おれをよっぽど信用しているのか、ばかにしているのか、単に鈍いだけなのか。
おれはしばらくキラの寝顔を見ていた。腕枕にしたキラの重さが、妙に懐かしく感じられた。気丈なくせに、まるで子どもっぽい寝顔のキラ。ちょっと不思議な気がした。まずいな。キラの表情が「あいつ」の表情と重なってくる。要注意! おれは、キラの唇を見つめた。良く見ると唇は、妙に立体的な形をしている……キラは、なんだか泣いているようにも見えた。現実感の欠如。おれは、腕に力を込めた。
「ちょっと待って」
こいつは……実に……。
「そんなに力入れたら、痛い……」
まんざらおれを信用していたというわけでもなさそうだな。
「さあ、ナギ、正直に言いなさい。今度こそ、『彼女』のこと考えていたんでしょう?」
「あんた、プロの占い師なんだろ、当ててみたらどうだ」
「見料がなきゃ仕事はしないって言ったでしょ」
「じゃ、おれも、話してやらない」
「そうね……しょうがないか……。好きだったのに別れたのね、彼女とは」
「ほう、大したものだな、当たりだ。何でわかった?」
「占い師相手に、『何でわかった』はないでしょ。ま、いいわ。種明かししてあげる。ナギはわたしにキスしようとした――んだと思ったけど。嫌いな人思い出しながら、キスする気にはならないだろうし、今でもつきあっている人を思い出しながら、わたしにキスしようとしたのなら、いくらなんでもナギを軽蔑するわ」
「たいしたもんだ。しかし、良かったよ、あんたに軽蔑されなくて」
「ふふ、それにね、いちばん良くあるパターンだわ、それって」
あいつとは、駆け落ちの予定だった。おれ達は、その話を決めた夜、ふたりっきりで夜通し泣いた。反対したやつら――両親やら親戚やらが気の毒でな。時間はたっぷりあったから、無謀なまねはしなかった。本当は2人でこのオアシスまで来るはずだった。仕事は見つけてあった。おれはご覧の通りここで夜警をやっている。
「ふうん、なかなかやるのね、ナギ。ちょっとは見直したわ」
「生意気言うんじゃない……しかし、答えは初めから出ていたのかも知れない」
「どういうこと?」
「おれ達は夜通し泣いたんだってこと。おれは、どちらかというと、それまで親父のことなんか何とも思っていなかった。そのおれが、親父が気の毒で夜通し泣いたんだからな」
「あら、『彼女』にとっても同じことでしょ?」
「おれにとっては、ぎりぎりだった。たぶん、あいつには、荷が重すぎたんだろう。ちゃんとした親娘だったみたいだからな」
「それで彼女が裏切ったって訳? ナギを? それはあんまりじゃない、約束までしておきながら」
「そういうことになるな。でも、裏切ったというのは違うな」
「どう違うのよ」
しかし、なんだっておれが、振られた女の肩持たなきゃならないんだ。
「簡単なことさ、あいつにとってはおれより両親の方が大事だったってことさ」
「だから、それが、裏切ったってことでしょ」
キラの表情は険しかった。にもかかわらず、おれは見とれていた。声ばかりか、瞳まで澄んでいる。良いな。澄んだ目のひたむきさがキラに言わせているんだろう。「それが裏切ったってことでしょう」
あいつは、あいつの両親を守らなければならなかった。おれはおれの両親を見捨てた。どっちが正しくて、どっちが間違っているかなんて、誰にもわからないことだ。たとえキラにだって。あいつの「裏切り」は確かにショックだったが、おれは、あいつらしい、真剣な回答なんだと思った。どうしてキラに話そうかと思っているうちに、キラは反撃に転じた。
「ナギもナギよ、本当のことを聞かせて。駆け落ちするしか方法はなかったの?」
「あんた、なかなか痛いところをついてくるな」
「それが商売ですもの」
「昔からの敵同士でな、あいつの家とは」
「それでも、やってみなくちゃ。『最善の方法』をね」
「おめでたいやつだな」
「よく言われるわ」
「それで駄目だったらどうする?」
「今と同じでしょ」
確かにな。キラの言うことももっともだ。一度あいつの顔でも見に帰るか。どうせ、あいつに振られたときから、おれは村中の笑いものだし、駄目だったとしても、キラの言うとおり、今と同じだ。時には、こんな子どもの言いなりになってみるのも悪くはない。
「よかったら教えてくれない? 彼女の名前」
「ダイヤモンド・パウダー」
「え?」
「むろん本名じゃない。でも、あいつの名前だ。おれにとっても、あいつにとってもな」
−− 風の音にまぎれてゆく、私の声、とどかないの。
風の中で私ひとり、いっそ雨になればいいのに。 −−
身の上話の礼だそうだ。相変わらずの澄んだ声を聞きながら、おれは妙にハルカの言葉を思い出していた。ハルカは「じきに澄んだ声も聞かれなくなる」と言った。その言葉の意味が、なんとなくわかった。たぶん、澄んだ声をなくしたキラは、昆虫館で一夜を過ごすようなまねはしないだろう。そして、「あいつ」のことを、もう少しは、わかってくれるだろうと思う。
おれは、今よりは、澄んだ声でなくても、そして多分、もう少しだけおどおどと、「いっそ雨になればいい」と歌うキラに、いつか会ってみたいと思った。
夜明けが近いので出てゆくと、キラは言った。夜明かししてしまったか。
おれは、さよならの他には何も言わなかった。
「またいつでも来いよ、おれが警備をしてるときに」
「うん」
キラは確かにそう答えた。そして、振り返りもせずに柵を乗り越えて行った。
Fin.