蛍の谷

「ここが『蛍の谷』?」
 カナが不思議そうに尋ねた。無理もない。砂漠の中だというのに、蛍の谷にはオアシスがない。オアシスのない村も滅多にないと思うが、ここは村どころか、オアシスのない宿場だ。何の因果で、この街道にはオアシスのない宿場なんてものがあるんだ。
 それだけじゃない。蛍の谷にはひっきりなしに砂嵐が吹き荒れている。砂嵐の名所を街道が通過していること自体、おれには承伏しかねる。誰だってそうだろう。
 それなのに、街道のやつらは、未だにここを「蛍の谷」なんて呼んでいるし、街道の中の宿場なのだそうだし、砂嵐を避けて街道を迂回させようなんて考えるやつもいない。

 もっとも、蛍の谷から半日くらいのところに「南通り」と「谷下り」という宿場があって、街道全体としては、ことは足りている。誰が好きこのんで蛍の谷なんかに泊まりたいものか。おれだって、泊まるつもりは毛頭なかった。
 ただ、砂嵐が思った以上にきつくて、おまけに、カナなんていう足手まといまで連れていたものだから、南通りまで、あと半日歩くというのはあきらめて、蛍の谷に泊まるはめになってしまったというわけだ。

 たった一軒しかない宿屋に入ると、宿屋の娘が部屋まで案内してくれた。なんでも半年ぶりの客だそうだ。まあ、そんなものだろう。
「ここが『蛍の谷』?」
 宿屋の娘を相手にカナが繰り返している。
「そうよ、ここが蛍の谷だわ」
「蛍は?」
「ううん、蛍はいないの」
「いないの?」
「うん……蛍はいないわ」
「じゃ、どうして蛍の谷なの?」
「そうね……夜になったら外に出てみましょうか。そうしたら、どうしてここが蛍の谷なのか、お話しできるかもしれないわ」
「ちょっと待った。外に出てみろって、この砂嵐だ。客を殺す気か」
「あ、いいえ……。夜になると、砂嵐はおさまります」
「おさまる?」
「ええ……あ、申し遅れました。ケーナと申します。このような土地柄ですので、充分なおもてなしもできませんが、どうぞ、ゆっくりとお休みになりますように」
「で、『このような土地柄』で、嵐がおさまるってのか?」
「ええ、夜半には」
「ねえ、ナギ? そうしましょうよ」
 おれは返事をしなかった。どうせ夜になれば、カナも忘れてしまうだろう。
「お嬢さんですか?」
「いや、兄貴の子だ。ちょっと届けないといけなくなってな」
「そうですか。大変でしたね、この砂嵐は」
「そうだな。砂嵐が名物だとは聞いていたが、いつもこんな調子なのか?」
「いいえ、こんなに吹くことはないわ」
「そうか。だったら、嵐の中、カナを連れ出すようなことはやめてくれよ」
「あら、それは夜になってみないとわかりませんわ」
「まだそんなことを……」
「いいえ、泊まってみなければわからないことはあるし、夜になってみなければわからないこともあるものですよ」
 話はそれで終わった。夕食に、さすがに豪華とは言えないものの、ちゃんとしたものが出たのには、ちょっと意外だった。
 夕食の後もカナとケーナは話し込んでいて、おれはうつらうつらしながら、それを聞いていた。

「見たことあるの? 蛍?」
「ううん。何百年も前のことだから、私も見たことはないわ」
「そう。残念」
「その頃はね、川もあったし、湖もあったらしいの」
 伝説か。おれは思った。オアシスに見放された宿場町が、その昔水の都だったというのは、ありそうな話だ。そして、こう言うに決まっている。「いつかまた蛍が帰ってくる」ばかげた話だ。いくら「蛍の谷」なんて名前を付けてみても、砂嵐はやんだりしない。
「そしてね」
「どうしたのケーナ?」
「蛍の谷は、街道の始まった場所なの。だから今でも、周りの宿場の人たちが毎日水を届けてくれるの」
 なるほど、オアシスもない宿場でちゃんと料理が出せるのはそういう訳か。それにしても、他の街の人間までこんな戯れ言を信じているとは思わなかったな。
「じゃ、ちょっと、出てみようかカナ」
「うん」
 ちょっと待て。冗談かと思えば、本当にカナを連れ出すつもりか。
 おれは飛び起きるとあわてて後を追った。なんだって、砂嵐の中に出て行くんだ。

 ところが……。
 ケーナが言ったとおり、本当に嵐はやんでいた。それどころか、穏やかな風が吹いている。風には湿り気が混ざっていて、心なしか、砂もぬれているような気がする。
「いかが? これが、蛍の谷の夜よ」
「これは……まさか、あんな砂嵐がやむなんて……」
「ね、泊まってみなければわからないことだってあるでしょう」
「じゃ、蛍も帰ってくる?」
 カナが割ってはいる。
「ううん。蛍は帰ってこないわ」
「どうして?」
「蛍の谷は、もう死んだ村だわ。だから、どんなに穏やかな風が吹いても、しっとりとした空気に包まれても、決して蛍は帰ってこない」
「死んだ村とはけっこうなはなしだ。あんたは、こうやって宿をやってるじゃないか」
「そうですね。死んでしまった村が、未だに宿場と呼ばれているのも、蛍がいなくなっても蛍の谷という名前なのも、それなりのいわれがあります」
「ほう、どんな?」
「話せば長いことですが……」

 月明かりの中で、ケーナは蛍の谷の伝説を語り始めた。

 その昔……もう何百年も前のこと、この谷は水の豊かな村でした。むろん、その頃から砂漠に囲まれていたのですけれど、ここから見える山からの川が流れこんでいたのです。それだけではなく、その頃は風ももっとしめっていて、夜毎に雨が降ったといいます。そして、夏には蛍も飛び交ったのだそうです。
 砂漠に囲まれたオアシス。人々は蛍の谷と呼んで暮らしていました。
 この村を訪れる誰もが、いぶかしく思いました。本当に砂漠の中に、蛍の飛ぶ村があっても良いのだろうかと。あるいは、これは何かの間違いではないのかと。

 ところが、少しずつ変わり始めてはいたのです。何もかもが。
 まず、川の水が少なくなりました。次に湖が少しずつ小さくなったのです。最後に夜毎のように降っていた雨が少しずつ降らなくなり、ついに全く降らなくなってしまいました。
 川の流れが枯れると、それまで何事もなかったように暮らしていた村人も、さすがに不安になってきました。まだ、湖には水が残っていましたが、それも長くはないことがわかってきました。

 その頃村にはペペルという占い師が、ひとり娘のハシカミと一緒に暮らしていました。川が枯れて不安になった村人はペペルのもとに押し掛けたのです。
「おい、ペペルよ。いつになったら雨は降るのかの」
「そうさね、わからないな」
 ペペルはそう答えただけでした。
 実のところ、ペペルの――蛍の谷の占いは他の街の占いとは少し違っていたのです。何百年も何千年も前におこったことを、詳しく書き留めておくのが占い師の仕事です。そして、何か事件が起こると、たくさんの出来事の中から、よく似た事件を探してきて、お告げをするのでした。
 ですから、村人たちが水が少なくなったようだと噂を始めた頃、ペペルはすぐに昔の出来事を隅から隅まで調べ上げたのです。
 けれど、今度のような日照りはそのときが初めての出来事だったので、ペペルは、どのくらいしたら雨が降るのかとか、どのくらいの水をためておいたらいいのかとか、そういうお告げは何もできなかったのです。

 それでも、村人は毎日のように押し掛けます。ペペルにとってつらかったのは、村人の不安やいらだちがハシカミにも移ってしまったことです。村人だけでなく、不安そうな顔をしたハシカミに何度も尋ねられて、ペペルはつい言ってしまったのです。
「ああ、湖の水がなくなるまでには、雨も降るじゃろう。安心しなさい」  ハシカミを抱き上げながら、ハシカミを安心させるために、ひっそりとつぶやいた言葉は、数日のうちに村中に広がりました。ペペルがそう予言したのだと。
 その頃は、まだ湖も大きかったので、村人は安心して、再び生活を始めました。言われてみればそうです。湖はあんなに大きいのだから、湖が枯れるまでには、雨も降るでしょう。

 ところが、それからも雨は降りませんでした。もちろん、川も枯れたままです。季節が変わる頃には、湖も本当に小さくなってしまいました。
 湖が小さくなった頃、ペペルの占いはインチキだという噂がささやかれ始めました。ハシカミがあざを作るようになったのもその頃です。噂はだんだんに大きくなり、誰もが知っている噂になりました。誰もが知っている噂なのに、誰もが信じないふりをしていました。
 そしてある日、雨が降らないまま、湖は干上がったのです。

 ペペルはすべてを見ていました。湖が小さくなるに従って、不安を強くする村人の様子も。インチキだという噂も、彼に向けられる疎ましい視線も。そして、ハシカミにもその矛先が向けられたことも。
 ペペルは毎日祈り続けました。夜になるとハシカミを抱きしめたまま眠りました。

 村人がペペルを殺そうと押し掛けたのは湖が干上がって、すぐのことでした。ペペルは村を裏切ったのだからと言って。ペペルが、占い師の分際で「雨が降る」などと予言したのは、身の程知らずで、それだから、神の怒りに触れたのだと。ペペルが予言したからこそ、雨は降らなかったのだと。
 ペペルは逃げることもなく命を奪われました。神官と名乗る男が、裏切り者のペペルを殺したと、仰々しい祈りを捧げました。
 ハシカミは、村を追い出されました。殺すのははばかられるとしても、ペペルの娘です。村に残しておくと、いつまた、村に災厄が訪れないとも限りません。

 ペペルが殺され、ハシカミが村を出ていった夜、蛍を見たという話が残っています。それが、最後の蛍でした。

「いかがでした?」
「ペペルがかわいそう……なんだか……」
「まあ、話としては良くできているな。夜になると砂嵐がやむってのも、なかなか印象に残るしな」
 おれとナギがバラバラに感想を言った。
「それで、蛍はペペルと一緒に行っちゃったのね。だから、蛍はもう帰ってこないのね」
「そうよ。もう蛍は帰ってこない」
「ちょっと待った。よしんばその話が本当でも、蛍は関係ないだろう」
「それもそうだわ。でも、こんな涼しい風の中だと、蛍はペペルと一緒に行ってしまったんだっていう気持ちにはなりませんか?」
「まあ、雰囲気のいいのは認めるがな。あんた、本当にペペルが蛍を連れていったなんて思ってるのか」
「ううん」
「なんだって? 信じてるのじゃないのか」
「そう、信じたいだけ。このくらいの湿気じゃ蛍は生きられない。そのくらいはわかるわ」
「そうだろうな」
「でもね、そうわかってしまっても、このあたりの人たちは信じているわ。私もね」
「おれは信じない」
「それなら、それでかまわないわ。カナは?」
「そうね、本当だったかもしれないわね」
「しょうがないな、子供は」

「あなた、ジプシーってご存じ? この街道の」
「ああ、街道沿いで、占いやら、歌うたいやらやってるのがいるな」
「ペペルが殺された後、村を追い出されたハシカミがジプシーの始まりになったの」
「それはそれは……」
「そして、村人たちは周りにできたオアシスに移り住んで、やがて街道ができたわ」
「あんたは?」
「そしてね、ペペルの同類たちが、ここに残ったの」
「同類だって?」

 そう。蛍の谷は街道のすべての始まり。村人たちがペペルを殺そうとしたは、なぜだかわかる? ただ単に、ペペルの占いが外れてがっかりしたって言うだけのことじゃなないわ。
 本当はね、誰かに責任を押しつけたかったのだと思うの。そうすれば、自分は悪くないと思っていられるし、ペペルを殺したら、悪人を殺したんだから、あるいは雨が降るかも知れないって思っていられるものね。
 多分、神官も殺されたでしょうね。彼も望んで神官になったんじゃないと思う。ペペルに予言をさせたのも、神官にペペルを殺させたのも、もとはと言えば、村人だわ。
 誰も認めないでしょうけどね、自分の責任逃れ――それだって、本当は責任でも何でもない、思いこみなのに――のために、ペペルを殺しただけだなんてね。だから、ここから離れていく。誰も蛍の谷には近寄らない。それでいて、心のどこかに負い目を感じて、蛍の谷を未だに街道からはずせないなんてね、いいざまだわ。

「それと、ハシカミのな」
 そうね。そして、ジプシーも蛍の谷から始まったものだわ。未だに街道の村人と打ち解けることのない、それでいて、村人たちの間に紛れ込むようにして暮らしている人たち。
 ハシカミは知っていたと思うの。結局自分がペペルを殺すきっかけを作ったのだってね。始まりから自分の言葉が巡り巡って誰かを殺してしまいかねないって知っていて、それでも、ペペルに予言を求めたのは、村人たちだって同じだと、伝えたい。
 だから、打ち解けるのが怖くて、それでいて、村人と一緒に暮らしたがっている、ううん、話したがっている。ジプシーはそういう人たちだわ。
「なんだか、かわいそうね」
「カナは優しいのね」
「おだてるのはやめてくれないか」
「いいえ、おだてたりはしてないわ。本当のことよ。心配しなくても、カナはすぐに、人の悲しみがわかるようになるわ。単に優しいだけじゃなくてね」
「よけいなお世話だ」

 あとは、未だに蛍の谷に居座っている私たち。オアシスがなくても、宿屋があれば宿場だけど、宿屋もなくなってしまったら宿場じゃないものね。
「いいじゃないか、別に。今でもほとんど宿場の役はなしてないんだから」
「私――私たちは、『蛍の谷』っていう名前を、そして、ここが宿場だったってことをいつまでも残しておきたいの」

 あてずっぽだって自分でも知っていて、「雨が降る」って言ってしまったペペルの物語を、そしてね、村人がペペルにどんな仕打ちをしたのかってこと、ジプシーがどんな人たちなのか、それを伝えておきたいの。あなたや、そして、カナや、その他の人に。そして、誰も聞いてくれないのなら、せめていつまでも覚えておきたいから。

 結局、おれたちは、夜明け近くまで話し込んでしまった。月明かりの中で、カナは眠っていた。どんな夢を見ていたのだろう。
 夜明けが来ると、あたりはまた砂嵐に包まれてしまった。
 別れ際に、ケーナはいたずらっぽく言った。
「そうね、いつにない砂嵐で、蛍の谷が誰かを招いたとしたら、それは、あなたじゃなくて、カナね」
「そんなことがあると信じているのか、あんたは」
「さあ。そんな風にも思えるってことよ」

 それ以来、おれは蛍の谷には寄ってない。知り合いの誰かが泊まったといううわさも聞かない。結局、ケーナの話だって、本当かどうか怪しいものだとは思う。
 それでも、嘘のように砂嵐がやんで、しっとりした風の吹く蛍の谷を思い出す度に、百年も前にもやはりそこで人が暮らしていたのだと思ったりすることもある。ことによると、それはペペルの伝説であったのかも知れないのだ。


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Nagi -- from Yurihama, Tottori, Japan.
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