ひまわり

 夏の暑い日だった。
 「氷」の看板を見つけて、わたしは、突っ立っていた。
 看板はありふれたものだったから、あの、かき氷のことなのはわかりきっていた。ただ、その看板は、どう見ても倉庫にかかっていたのだ。
 倉庫の表側にまわってみると、ご丁寧に「営業中」の看板までかかっている。場違いな雰囲気であることは、はなはだしいが、やはり、ここは喫茶店か何かで、かき氷を食べさせてくれる所なのだろう――そう思って、わたしは玄関のドアをあけた。

 ドアの中は、正真正銘の喫茶店だった。
 クロス張りの壁にセンスの良い椅子とテーブル。壁にかかった絵。こじんまりとした良いお店だった。
 わたしは、とりあえず、かき氷をオーダーした。

 ややあって、出されたかき氷を食べながら、わたしは、描きかけの絵に気づいた。イーゼルに架かったままの絵は、誰かが描きかけのまま、ほんの少し席をはずした――という風に見えた。

「ああ、あれですか。いえね、ケンジのやつが、ここで描かせろってうるさいものでして。お気に触りましたか」
「いいえ。とんでもありません。良い絵ですね」
「わかりますか?」
「ええ。まだ出来上がっていないのにこんなことを言ってはいけないんでしょうけどね」
「いえね、わたしも、ケンジの絵は好きなんですよ。もちろん、出来上がったのも、いいに決まってますけどね、こうして描きかけの絵がまた、どことなくいいんですよ。だから、ここで描かせろってしつこく言われるとつい、承知してしまいまして……」
「ここにかかっている絵は、全部ケンジさんの絵ですか?」
「ええ、そうです。どうです、なかなかの絵でしょう」
「ええ。そうですね」
 少しばかり長居をしたにもかかわらず、その日はケンジさんに会うことは出来なかった。マスターの話だと、ケンジは、わりと気まぐれらしくて、ひがないちにち描き続けることもあれば、何週間も来ないこともあるという。

 しばらくして、わたしはそのお店を訪れた。あの絵のことが少し気にかかっていたし、なによりも、お店の雰囲気が気に入ったから。
 キッチンには、マスターではなくて、若い男の人がいた。勝手が違ってちょっとだけどぎまぎしていると、その人は、わたしに声をかけた。
「いらっしゃいませ」
「…………」
「今日のお勧めは紅茶です、お客さん」
「そう……」
 なんだか勝手ね……と、ほんの少し思ったけれど、考えてみれば「今日のお勧め」なんて自分で言う人も珍しくて、ちょっと面白いかなとも思って、わたしは素直に紅茶をオーダーした。

「いかがですか?」
「おいしいですね」
 ちょっとずうずうしくないかな……と思いながらも、結構雰囲気のいい人で、わたしも、受け答えをしてしまう。
 これがケンジさんとの出会いだった。
 久しぶりに顔を出したケンジさんに、マスターは店番を頼んで出かけてしまった。店番を頼まれたものの、ケンジさんは紅茶しか入れられなかった。そんなわけで、「今日のお勧め」なんて言ったのだそうだ。
「紅茶だけは、マスターがしっかり教えてくれてね」
「ずいぶんと勝手ですね」
「ごめん。でも、素直に紅茶を注文してくれて助かったな」
「今度来たときには、何か別のものでもお願いしようかしら」
「それは困る……」
「そう……それで、今日は描けましたか?」
「今日は描いてない。いきなり店番を押し付けられたし。それに、今日は描くつもりじゃなかったから」
「描くつもりじゃなくても来ることがあるの」
「そう、コーヒー飲みたいときとかね?」
 そういえば、ここはそもそも喫茶店だった。

 わたしは、ケンジさんに「描きかけの絵も素敵ですね」というと、彼はずいぶんと満足そうにしていた。
 なんでも、描いてしまった絵は「思い出」なんだそうだ。どんな絵を描こうかって決めてから描くのじゃなくて、その時々で描きたしたり時には消したりを繰り返して、いじりようがなくなると、その絵は「思い出」になる。
 ケンジさんはそう話してくれた。
 だから、描いているときが本当に楽しいとケンジさんは言った。できあがってしまうのがもったいなく思えることもあるのだと。自分の描きかけの絵に少しずつ違った何かがおこるのはとっても楽しいのだと。

 ケンジさんとは少しばかり話して、そして別れた。
 わたしのまわりで、毎日あれやこれやがおこっているのと同じで、ケンジさんの絵の中でもあれやこれやがおこっている。時間の進み方はケンジさんの絵の中の方が随分とゆっくりしているようだけれど。
 わたしとしては、ケンジさんの絵がなんとなく気になったし、喫茶店の雰囲気はいいし、マスターの入れてくれるコーヒーもおいしくて、時々、この店を訪れるようになった。
 不思議なもので、あっけなく出会ってしまったわりにはその後ケンジさんと会うことはなかった。ただ、何度か来るたびに、少しずつようすをかえるケンジさんの絵を見ていると、ケンジさんがいつでもそこにいてくれるような気持ちになった。

 ひとつの絵はいつか出来上がってしまう。ケンジさんはそう言ったけれど、出来上がってもいいのじゃないかなとふと思う。ひとつの絵は出来上がっても、そうして、ケンジさんの言う「思い出」になってしまうかもしれない。でも、きっとケンジさんは次の絵を描き始めるのだから。
 ケンジさんの絵に描き加えられたヒマワリを見ながら、わたしは、今度会ったらそう話しかけてみようと、ひそかに決心した。

 物語は突然に終わった。
 ずいぶんと長い間、ケンジさんの絵は変わらなかった。
 ある日、もう顔見知りになってしまったマスターが言った。
「今日のお勧めは紅茶です、お客さん」
 ずいぶんと悪い予感のなかで、わたしは紅茶をオーダーした。
 マスターの入れてくれた紅茶は、ケンジさんの紅茶にそっくりだった。

 今でも、ケンジさんの絵はイーゼルに架かったままになっている。
 マスターが持ってかえらないかと勧めてくれたけれど、やっぱりここにあるのがふさわしい気がして、わたしは断った。
 だから、ケンジさんの絵は描きかけのまま、この喫茶店にある。そうして、ときおり訪れるわたしを、今でも迎えてくれる。


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Nagi -- from Yurihama, Tottori, Japan.
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