あのひと

――あのひとを知りませんか?――
 あの人? うん。こんな雨降りの夜は、ひとりで星を描いてるんじゃないかな。うん? 晴れてると、描いてるところを誰かに見つかってしまうかもしれないからって。
 落ちる星が多くて書くのが追い付かないけど、でも、描いてれば星は無くならないからって、多分今夜も描いてると思うわ。
 ううん? 最近は会ってないわね、そう言えば。うん? だって、あの人の描いた星が見えるから、しょっちゅう会ってるようなものだわ。

――あのひとを知りませんか?――
 あいつか? 海辺の街の生まれだそうだな。海の音楽のことを良く話してくれた。ああ、波と風と海鳥さ。
 海の風は、他の国の話を連れて来てくれる。あんまり悲しい話は波が隠してしまうから、だから、波の音はあんなに優しいんだそうだ。
 でもな、海鳥は、波がかき消してしまった悲しい話を聞き出すことができる。だから、海鳥の声は、悲しく響くんだそうだ。
 あいつは、そんな海の音楽を聞きながら育ったんだそうだ。

――あのひとを知りませんか?――
 いい雨だろう? 涼しくって、でも、湿っぽくない雨だ。 なんだ? ああ、やつのことな。雨は人の涙でできています――って、やつは言ってた。
 涙と言ってもいろいろあって、だから、雨にもいろいろあるんだそうだ。暖かいのから冷たいのまで。気持ちの良いのから、何もかも押し流してしまいそうなのまで。
 だから、雨の音にも、いろんな言葉が隠れているってな。
 おれ? おれにはわからないけどな。でも、さしずめ、今日の雨は生まれたばかりの赤ん坊の、初めての涙ってとこかな。

――あのひとを知りませんか?――
 うん。あのこの入れてくれた紅茶はおいしいわね。
 そうそう。あのこのことね。なんでも、入れてくれるのは、海の風で乾かしたお茶なんだそうよ。そう言われると、波の音なんかも聞こえて来そうでね。良いお茶だったわ。
 最近は見ないわね。私が元気だからかしら。そうそう、寂しくなると決まってお茶を入れに来てくれたっけ。
 どこにいるんでしょうね。きっと、あのこのお茶を飲みたくなったら、また来てくれると思いますよ。

――あのひとを知りませんか?――

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
『あのひと』 by 麻野なぎ
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(licensed under a CC BY-SA 4.0)

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