――君がホームに立つ頃、世界は朝であった――
お気に入りの詩の一節をつぶやいてみる。
詩の中で、「君」は何か悲しいことがあったらしくて、駅で泣きながら夜明かしをすることになっている。
夜通し泣き明かして、気がつけば夜明け。
駅のホームに立てば、やっぱり、朝が来たんだと気づいたところで、詩は終わっている。
だから、「世界は朝であった」
そんな響きが気に入っていて、失恋などした私は、この詩をまねてみた。
世界は朝であった。そんな気分になれるかしらと思って。
まねしてみたといっても、私は夜明かしはしなかった。実に健全に泣いて、泣き疲れるといつの間にか眠っていた。そして、目が覚めたら午前四時。そうして、まだ薄暗いホームに立った。
少し寒いホームに立って、やっぱり、朝はやってきた。
上りと下りの始発列車は、同時に発車する。コインを投げて、下りの列車に決める。
午前四時五二分。ささやかな旅は始まった。
田舎のローカル線。私の他には行商に出かけるような風情のおばあさんが数人。がら空きの列車に乗る。
列車の中で少しうつらうつらする。そうして、気がつくと向かい合わせの席に女の子が乗っていた。
小学生くらいかなと思う。それにしても、こんな時間に小学生ひとり列車に乗るなんてどういことなんだろうなとは思った。
私が目を覚ましたのに気づくと、彼女はトランプなど取り出して、カードをくり始めた。もしかしたら、トランプの相手をさせられるのかなと思ったけれど、どうやらその心配はなさそうだ。
突然――。
「ふうん、おねえさん、しつれん したんだ」
トランプ占いということらしい。でも、突然なんてことを。第一、「しつれん」なんて言葉、ちゃんと舌まわってないじゃない。
「あんたね、意味わかってんの?」
「わかってるわよ、かれしに ふられたんでしょ」
「まあ、意味って……確かにそうなんだけどね」
「それで、じさつ しに いくんだ」
え? 「じさつ」が「自殺」という意味だとわかるのに少々時間がかかってしまった。そりゃまあ、そういうケースもあるかもしれない。でも、いくらなんでも、理論の飛躍ってもんよね。
「あのね、自殺しに行くって、ピクニックに行くんじゃないんだから……。それにおあいにくさま、振られたくらいで死んだりしないわよ」
「そうか……ふられただけじゃ、みんなが じさつする わけじゃ ないのか……」
「あんたね、『みんなが』じゃなくて、普通はしないの」
言っているうちに、夕べ思いっきり泣いたのもばかばかしくなってきた。
「ふうん、けっこう けなげ なんだ」
この子ったら、本当に意味わかってしゃべっているんだろうか
「そっか、しつれんって あまり たいした ことじゃ ないんだね」
まあ、そういうことにしておきましょう。
「それでね?」
「え?」
「ハッピー・ランドってしってる?」
「なに?」
気がつくと、女の子の姿は見えなかった。
列車はちょうどホームに止まっていたけれど、ホームにも彼女の姿はなかった。
少しばかり、馬鹿にされたような気もしないではない。でも、不愉快な感じはしない。不思議な女の子だった。勢いで列車に乗ったけれど、行くあてなんてないし、いいや、ここで降りてみよう。
駅を出て、手頃な道をしばらく歩くと、道は海に続いていた。
海。こんな近くに――列車で一時間も走らないうちに海なんてあったかしらとちょっと考えてみる。海があるなんて、今まで、思ってもみなかったから。
朝早い時間にもかかわらず、誰かが絵を描いているのを見つけた。初老の男性。通り過ぎようとすると、いきなり声をかけられた。
「お嬢さんでしょうか? カナに呼ばれてきたのは?」
「カナ……ちゃんですか?」
「そう。トランプ占いの女の子を見かけませんでしたか?」
トランプ占い……そういえば。
私は、今朝の一件を話した。
「それが、カナです。ぼくもカナのことはよく知らないのですが、今朝、カナが久しぶりに訪ねてきて、お客さんをひとり呼んだからと、そう言って帰っていったのですよ」
「お客さん……って、私のことでしょうか?」
「そうです。お嬢さんの話からすると、カナはあなたを呼んだのでしょうね」
カナに呼ばれて、カモメの絵を描きに来たのだと、彼は言った。
カナに呼び出されるたびに、カモメを描いているのだから。
「カモメですか?」
「そう、カモメなんです」
私は改めて海を見下ろした。
海沿いは岸壁になっていて、眼下に海が広がっている。海辺には数羽のカモメが見える。
「なぜ、カモメは美しいんのでしょう?」
「え?」
突然問いかけられた。
「ぼくはね、少年の頃はもう少し離れたところに住んでいたんですよ」
彼は話し始めた。
彼の話はこういうことだった。
彼は少年の頃、少し離れたところに住んでいた。彼が住んでいたのは漁港の近くで、今よりずっと海に近いところで暮らしていたことになる。
「今は、岸壁の上だから、海辺からは少し離れてしまったけれどね」
彼は、その頃一羽のカモメと友だちになった。その頃は、毎日海辺まで出かけていった。そこで、カモメを見つけたのだという。けがをしているのか、一羽のカモメが仲間からはぐれて海辺にいた。
彼は、えさをやることにした。
えさには困らなかった。市場には小さな魚がいくらもうち捨てられていた。カモメ一羽分のえさは、それで充分だった。
やがて、カモメのけがは治ったようで、仲間と一緒に群れに帰ることが多くなってきた。そして、夏が来る前に、カモメはいなくなった。北へ帰っていったのだろう。
「さみしかったのでしょうね」
「ああ、さみしかった。ぼくとしては、カモメと仲良くなれたと思っていたのに、そのまま帰っていってしまうのだからね」
「そうですよね」
「でも、やっぱりカモメは帰っていかないとだめだったんだと思うのですね」
「そうなのかもしれませんが」
カモメは冬鳥なので、夏には北の国に帰ってゆく。生まれたところにね。生まれたところに帰れば、必ずえさがあって、生きてゆけるから。だから、どんなに友だちになったと思っても、夏になれば帰っていくのだろう。
もっとも、そう思えるようになったのは、ずいぶんとあとのことだけれどね。
彼はその頃からカモメを描き始めたのだという。その頃になって、カモメは決して自由ではないと気づいたから。
彼と話しているうちに、スケッチがひとつできあがった。彼は私にそれをくれるという。
「時間がないから、クロッキーだけど」
彼はそう言って渡してくれた。
彼の話を聞いたあとでも、空を飛ぶカモメにあこがれてしまう。地面に縛り付けられている人間に比べて、カモメはなんて自由なんだろう、そう思ってしまう。
でも、そうじゃない。
生きていくことに必死だから、カモメは美しいのかもしれない。彼のクロッキーをながめて、私は、お礼を言った。
彼が描いてくれたもの、生きるために飛翔するカモメの美しさに。
私は海岸を離れた。彼に、「夢屋」を勧められたからだ。うん。彼にというか……カナが夢屋にも伝言をしているだろうからという、彼の言葉に勧められて、夢屋があるという、街外れへと向かった。
ひっそりと店を開けているからと言われたけれど、夢屋は案外簡単に見つかった。
「いらっしゃいませ、どのような夢をおあつらえいたしましょうか?」
「いえ……あの、カナちゃんに呼ばれて、ここに来てしまったようなのですが……」
「ああ、カナのお客さんですか、お待ちしていました」
やはり、カナは夢屋にも伝言をしていたようだ。
「ここは……そもそも、どういうお店なんでしょうか?」
「私どもは、文字通り、夢をお売りいたしております」
「夢……ですか?」
「そうです。夢といいましても、眠っているときに見える夢のことではなくて、将来のことを考える、あの夢の方ですけれど」
「夢を買うなんて、それでどうするんですか?」
「もちろん、夢ですから、夢をかなえようとするわけです」
「そんな……それは変ですよ」
確かに将来の夢なんかは持っているにこしたことはない。でも、お金を出して夢を買うなんて、どういうこと? 自分で決めるから夢なのに。
「夢って……その、買ってもかなうと決まったわけじゃないですよね」
「もちろんです。そもそも、夢は、特に大きな夢は、かなわないとしたものですから」
「それじゃ、まるでインチキじゃないですか。かないもしない夢を売るなんて」
「いいえ、インチキというわけではないのです」
そう言って、夢屋は話し始めた。
お嬢さん、夢をお持ちですか? あなたのおっしゃるとおり、本当は夢なんていうものは、自分で決めて、自分でかなえようとしなければいけないものです。でも、夢を持つことだけでも大変だと思いませんか? 自分で自分の夢を決めて、そして、「こんな夢があります」って言いつづけることは、それだけでもとっても大変なことなんだと思います。だから、夢なんて持たないことに決めてしまった人が大勢いると思いませんか?
ここでは、夢を持つところまでのお手伝いをするのです。もちろん、いったん持った夢は自分でかなえようとしなければなりません。でも、どんな夢があるのかとか、どんな夢を持てばいいのかって、そういうお手伝いはできるような気はします。
「確かに……」
何かをかなえたい、そう思っても、自分で自分の夢を描けない。
わかる気がする。何かをかなえたいと、それすら思えない人も多いのだったら、ここで夢を買って、それを自分の夢にすればいい。そういう形だったとしても、夢を手に入れるのはいいことなのかもしれない。
私は思い直すと、お店の人に尋ねてみた。
「どんな夢があるんでしょう?」
「こちらにあるのは、都会に出てお金持ちになる夢、これは、お安いですよ。あちらにおいてあるのは、故郷の公園に並木道を造る夢、こちらは割とお高いですが」
「なぜ?」
「どうされました?」
「なんで、大金持ちになる夢が安く手に入るんですか?」
「夢をかなえるためのお値段ではありませんから」
「でも……」
「私が言うのもなんですが、このお店に、お金持ちの夢を買いに来る人は、多分、夢じゃなくて飾りが欲しいだけの人なんです」
「でも、なにも、大金持ちになる夢が悪いというわけじゃないと思います」
「そうです。お金持ちになる夢が悪いときめつけるわけじゃありません。お金持ちになろうとまじめに考えている人もいるでしょう。でも、そういう人は、夢を買いに来たりはしないのです」
なるほど、だから、わざわざお店に来て手に入れる、お仕着せの夢なら、大金持ちの夢は安いわけか。逆に、高い夢は、一見小さな夢だったとしても、本気でかなえようとする人しか買わない夢……そういうことらしい。
「そういうことになりますね。このお店は、何か夢を見えて、それをかなえようとしたい、それでも、夢を思いつくには少しばかり疲れている、そういう人のためにあるのですから」
お店の人は言います。夢を買うなんて、ほめられたことじゃありません。でも、どんな夢だって、買ってきた夢だって、夢を見ることもできない人よりは、夢に向かって歩いていった方がいいと思いませんか?
それに……本当のことを言えば、ここは、夢を買いに来るところではなくて、忘れていた夢を思い出すところなんです。
お店の人は、何か夢を買っていかないかと勧めてくれたけれど、私は断った。もう少し自分で考えてみても良いと思ったから。
もしかして、自分で自分の夢が作れないほど疲れたら、ううん、自分が見ていた夢を忘れてしまうほど疲れたら、またおじゃまするかもしれませんと、そう言って、私はお店を辞した。
いつの間にか、お昼近くになっていた。
別れ際にカナが言った「ハッピー・ランド」という言葉を思い出してみる。
カナはこの街のことを、ハッピー・ランドと呼んだのだろうか。この街のイメージとはずいぶん違う気がする。でも、ここで私は、ほんの少し幸せな気持ちになれた気がする。だから、やっぱり、この街はハッピー・ランドなんだろう。
そんなことを考えているうちに駅に着いた。
上りの列車が着くまでの間、ぼんやりとあたりを眺めていた。
やがて、上りの列車が着いて、列車に乗り込むとき、手を振っている女の子が見えた。
さよなら、カナ。さよなら、ハッピー・ランド。
FIN.